昭和八年十一月
 『香取神社正遷宮大祭』記念写真帖より
 
        (野田市欅のホール興風図書館蔵書)
 
     
カラー画像はHP管理者による平成二十年撮影によるものです
    
 建築当時の印半纏
    昭和八年建築当時
 大正十五年四月二十日の旧社殿焼失(類焼)以来、足かけ五年の歳月をかけて大工棟梁の佐藤里次により建築されました
   現在(平成二十年撮影)      左の画像で神門前に写っている春日灯篭の一対は昭和三十年頃に参道中程に移設されています。           
   正遷宮祭(氏子の奉迎)
 昭和八年十一月二日に正遷宮祭、大殿祭、神門祭、夜に入り遷座祭が行われました。
左と同じ場所です(平成二十年撮影)

       
 建築された昭和八年当時は神門前に木造鳥居があったようです。(前列中央が棟梁の佐藤里次)  左の集合写真はこの辺から撮られたものですが、木造鳥居は終戦前に取壊されたそうで現在は残っていません(平成二十年撮影)
     奉祝旗行列 
 七百人の中央小学校生徒による旗行列ですが、引率の先生?らしき人物も羽織はかま姿で写っています。
左と同じ場所です(平成二十年撮影)
     辛櫃・御神輿
 棟梁送りの行列陣容は、少年陣羽織隊を先頭に扇島音楽隊、青年武者陣羽織隊、大工棟梁、氏子代表衆、騎馬神職、騎馬甲冑武者隊、手古舞、木遣りを歌いながらの鳶衆、弓矢幣串を掲げた職人衆、最後に青年団による山車、と総勢二百数十名がえんえんと連なって賑やかに町を練り歩いた姿は、正に一大時代絵巻を具現したかのようだったと伝えられています。

 この神輿は通称「中みこし」と呼ばれ、現在でも夏祭りの昼の渡御で大人により担がれており、渡御で担ぐときには瓔珞(ようらく)の錺金物をつけていませんが、なかなか立派な神輿です。
 右の小さな画像は昭和三十年代の夏祭りで子供が同じ神輿を担いでいる画像ですが、偶然にも背景が同じ場所で撮影されています。

   投餅式(昭和八年十一月四日)
 十一月三日〜五日の竣工祝賀祭では、二ヶ所の特設余興場にて大神楽、芝居、映画、仕掛け花火、奉納剣道試合、奉納角力、等が行われたそうです。
 第一余興場は共楽館(映画館)、第二余興場は今なお現存する興風会館であったかと思われます。
 第二余興場(興風会館と思われます)の演芸
 野田生まれの作曲家で童謡「かごめかごめ」を採譜して全国に広めた山中直治により「御遷宮音頭」なる曲まで作られたようです。
<歌詞の一節>
 『出来て嬉しや香取様が・・・ヨイトサノサ・・音頭とるのは本家の旦那 たたく太鼓の調子よさ・・・サテ・・花輪に来るには何にもいらぬ 裸はだしで来ておくれ・・・♪』
      棟梁送り
 現在の下町(しもちょう)あたりかと思われますが、行列の三列目ほどに白っぽい装束の佐藤里次棟梁がおり、後ろの建物は昭和四年に建てられた特徴のある興風会館が見えます。昭和八年十一月二日〜五日の間で参観者は実に二十万人が訪れたと言われています。
      棟梁送り
 画像の右手が興風会館になりますが、ちょうどその前を通っているところで、右の人力車に乗っているのが棟梁の佐藤里次で、左の人力車は実兄である監督の佐藤良吉です。
 沿道に溢れんばかりにつめかけた見物人の羨望の目は一様に列中央の狩衣(かりぎぬ)、烏帽子、笏を手にした礼装の棟梁にそそがれ、棟梁の面目躍如たる様、この上ない一日、時に宮大工棟梁佐藤里次が働き盛りの五十四歳であったとの事です。

   
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