昭和30年代へタイムスリップ!
   昭和三十年代、ある年の七月二十一日と思われる祭礼当日の香取神社境内で、祭事係役員さんによる祭の式典が行われており、瓔珞(ようらく)の錺金物で飾られた上花輪神輿も神主さんによりお祓いを受けています。
 午前十時頃と思われますが、梅雨も明けた夏空で、ジリジリとした暑さが伝わってきそうです。
   現在の上花輪歴史館がある通りのキッコーマン旧上花輪プラント前あたりかと思われますが、担ぎ棒に寄りかかるように担ぐのが当時のスタイルだったのでしょうか、昼間の渡御だと思いますが、担ぎ手はビッシリと隙間がないくらい入って見事に担いでいます。
   担いでいる若衆の皆さんは花輪の手ぬぐいで鉢巻をして、さらしを巻き、半ダコに腰には細帯びを締めて、足元は白足袋・・・これぞ祭り装束というのか、カッコいいですね!
   本町通りを愛宕方面から現在の千葉興銀の交差点を曲がる手前を担いでいるところです。担ぎ手の若衆先輩方々も現在では九十歳前後になられているのではないかと思います。
   上の写真の続きで、現在の千葉興銀の交差点を旧NTT方向に向かってみこしを向けているところですが、右肩の後ろ担ぎ手の腕が見事に揃って左肩の担ぎ棒を力強く押しているのがわかります。
 電柱に「野田醤油株式会社」の看板が見えますが、昭和39年に「キッコーマン醤油株式会社」に社名変更していることから、この写真は昭和39年以前であることがうかがえます。
  現在も営業されている「旭屋呉服店」さんの看板が写っていますが、現在の千葉興銀の正面前を担いでいるところです。
 千葉興銀が建てられる前は、郵便の〒マークも見えますが旧野田郵便局舎であり、この建物は画像に写っている上花輪神輿の製作者の佐藤里次則の実兄、佐藤良吉の設計によるものとされています。佐藤良吉は野田の旧キッコーマン本店も設計した人物です。
  やはり現在の千葉興銀角の銀行の駐車場にあたる交差点ですが、後ろに見える建物は旅館「門松楼」で、千葉県営軽便鉄道の建設が決まった場所と言われ、明治41年に当時の県知事有吉忠一が県内視察の帰りに宿泊した旅館で、その夜、野田醤油醸造組合の頭取であった茂木七郎右衛門が知事を訪ね、鉄道の敷設を懇願し、紆余曲折しながらも鉄道計画が実現に向けて動き出し、明治44年5月9日に千葉県営軽便鉄道として柏ー野田町14.7キロメートルが開通し、この鉄道が現在の東武野田線につながっています。
=のだ市報「野田の魅力を発見!!シリーズQ」より抜粋引用=
  上の写真と同じ現在の千葉興銀角の交差点で、左手の建物は当時は野田郵便局で郵便ポストも見えます。右手電柱に立てかけてある看板らしきものは映画館のポスターで当時市内には「共楽館」、「銀映」、「野田東映」の映画館がありました。
 子供が担いでいるおみこしは上花輪の「中みこし」と呼ばれ、現在は上花輪夏祭りの昼間、大人によって担がれているおみこしです。
  担いでいる場所はわかりませんが、たぶんキッコーマンの旧上花輪プラントの工場が背景だと思われます。
 子供たちのみこしを担いでいる向き(進行方向は右⇒)が気になりますが、写真の中央に写っている若衆(子供)の格好は、てぬぐいのはちまきに半ダコ(実際は白の短パン?)、腰には細帯らしきものと、大人顔負けのお祭装束で、あっぱれ、お見事!
 
  旧NTT角の交差点で千葉興銀方向から昔の共楽館通り(現在の幸会通り)に曲がろうとしているところで、この交差点は現在でも信号がない狭い交差点で、12mある担ぎ棒の白木みこしを取り回すのに苦労する交差点です。
 わかりずらいですが、中央の電柱の後ろに「○○遊戯場」と見える看板は、「永楽」というパチンコ屋で、旧「居酒屋一代」があった場所です。
 右手のパチンコ「中央」はその後昭和40年代には、パチンコ「野田会館」となりましたが、現在は駐車場になっています。
   上の写真の場所の交差点を曲がりきって、共楽館通り(現在の幸会通り)にみこしがまっすぐに入りきったところですが、ここではキレイに肩が入った状態で担がれています。
 左手の角は現在の「コチヤ美容室」さんがある場所になります。
   昔の共楽館通り(現在の幸会通り)で画面右側が現在の「鈴木医院」さんの前に白木のみこしが写っており、昭和三十年代の共楽館通りといえば、野田で一番の繁華街でした。
 写真中央の電柱左手奥に共楽館(食堂、映画館)らしき二階立ての建物の屋根も写っています。
 みこしをとりまくギャラリーの数も現在の夏祭りよりも多いくらいで、なかなかのにぎわいです。
 
  トップへ